私が幼い頃、遠方ではあったが毎月のように祖父の家に泊まりに行っていた。
祖母や両親もいるのだが、私はいつも祖父と寝る。
寝る前に昔の話をしてくれるからだ。
それはいつも戦争のときの話。
祖父はビルマに戦争に行った。
この無謀な作戦の指揮官の運転手をすることもあったそうだ。
次第に戦いは熾烈を極め、
殺されるか殺すかしかない場面の繰り返しだった。
仲間を失った祖父は、ジャングルの中を彷徨った。
手榴弾を川に投げ入れては、浮いてきた魚で食いつないだそうだ。
今の私たちには想像もできない生活。
祖父に限らず、世界中のたくさん人が戦争によって多くのものを失った。
そんな話しを直接本人から聞く事が出来る世代は私たちまでかもしれない。
今でも世界では戦争があっているのだが、
私たちはもう二度と戦争をしてはならない。
やがて、終戦とともにイギリス軍の捕虜になった。
運転が上手だった祖父は、ここでも運転手をしたと言っていた。
言葉は通じなくても、イギリス兵には良くしてもらったそうだ。
帰国してからは、ずっと米作りをしていた。
私が遊びに行くと、田んぼにいたり、籾すりをしていた祖父。
一生懸命働いていた。
力強くて優しい人だった。
祖父に怒られたことは1度もない。
いつも笑顔で話をしてくれた。
そんな祖父も、90歳を超えてからは、さすがに足腰が弱った。
手すりを使って何とか生活していたが、
93歳を過ぎてからはトイレに行くことにも一人では難しくなってきた。
この世代にしては身長が170cmもある大柄な祖父なので、
小柄な祖母では介助が大変だった。
そして、祖父は私が働いている介護施設に入所することになった。
車椅子での生活だったけど、
リハビリをしたり、たくさんの人との会話を楽しめていたと思う。
1年ほど経ってから、手足の浮腫みがひどくなり体調を崩した。
心不全の症状が顕著だった。
呼吸状態も悪く、食欲もなくなって入院。
少し回復してからも、食事はほとんど喉を通らなかった。
入院から1週間ほど経つ頃、
面会に行った私に祖父はこう話した。
「もう飯も食えんほど弱くなってしもうた。こげんなったらお終い。
お前には世話になった。感謝しとる。」
何を言っているの?おじいちゃん・・・
世話になったのは私の方。
感謝してるよ。
だから、元気になって。
私もこの状態から回復はないだろうとわかっていた。
でも、本人からそんなことを言われると、涙が止まらなかった。
手を握るしかできなかったよ。
翌週、その翌週と、祖父はだんだん声が出なくなり、
「来たよ」と声掛けると、微笑んで頷くしかできなくなった。
入院から約1カ月。
祖父は静かに亡くなった。
95歳。
大往生である。
自宅に戻ってお座敷に横たわる祖父の傍らで、アルバムの写真を見た。
昔は今のようにいつでも写真が撮れるような時代ではない。
軍服に身を包んだ若い頃の祖父の写真が数枚あった。
初めて見た。
60代頃からの、私たちと一緒に撮った写真はたくさんあった。
老人会でいろんな所に旅行もした写真も。
知らなかったけど、
今まで自分で旅行したことがある場所には、祖父もほとんど行っていた。
同じ場所に訪れていたことが嬉しくなった。
私にとって、近い身内が亡くなるのは、社会人になって初めて。
通夜と葬儀での別れの辛さをしみじみと感じた。
火葬場に行ったのも20年ぶり。
火葬するということにも、いろいろな想いが交差して複雑な気持ちになった。
たくさんの親戚が訪れては、祖父との想い出話をしてくれた。
人を悪く言わない、真面目なじいさんだった。
みんながそう言っていた。
祖父は誰に対してもそうだったんだろうな。
大正に生まれ、
激動の昭和の時代を駆け抜けて、
平成の世まで楽しく過ごせたと思う。
最期まで強く優しく生きたおじいちゃん。
おじいちゃんがいたから、今の自分がいるよ。
自分も死ぬまで楽しく生きるよ。
本当にありがとう。